山亀記

トレラン始めたばかりですが…のんびり、ゆっくり走ります。いや、歩いてます。

【推敲中】ソーシャルフットボールを考える

ソーシャルフットボールの役割は回復なのか、社会的包摂なのか…少し斜めから考える

まだ書きかけですよ~

 

1 ソーシャルフットボール(以下SF)とは

  精神障害者がプレーするサッカー・フットボールのことである。日本ではフットサ ルがプレーされており、女性が参加する場合、1名増やして6人制でプレーされる。海外ではフットサルに限らず11人制やソサイチでもプレーされているらしい。

障害者サッカーは、SFのほかに、ブラインドサッカー、デフサッカー、CPサッカー、アンプティサッカー電動車いすサッカー、知的障碍者サッカーが競技団体として登録されて、障害者サッカー協会を形成している。

 yamakameは縁あって10年以上前からその活動に関与させてもらってきた。

 

2 SF活動の勃興

  SFが地域で広がっていく経過を見ると、大きく2つの経過があったと想像する。

 一つは自然発生的に地域でフットボール好きな仲間が出会い、チームとなったものであり、経過により当事者のみの場合や、友人・家族なども含まれて活動してきたものであり、当然、支援者などを含む場合もある。これは一般の同好会的集まりであり、目立ちはしないものの各地域でひっそりと活動がされてきていたようだ。

 もう一つは、現在の「日本ソーシャルフットボール協会(以下JASFA)」につながる動きである。この協会は平成〇年に設立され、めざすものとしてホームページには「フットボールを通じて精神疾患精神障害のある人を中心に、様々な人々の心豊かな社会生活の実現を目指します」と記載されている。そして、「ソーシャルインクルージョンとアンチスティグマの実現」「スポーツ環境の整備と障害者当事者のリカバリー」「スポーツの一分野とし

ての確立」の三点がミッションとして挙げられている。この協会を中心に、世界大会に向けた日本代表の選出、全国大会に向けた地方大会の開催、他障害を含めた交流事業の開催などが企画されていく中、もともと各地域で医療や福祉の日中活動プログラムの中で行われていた活動が促進され、情報の共有が進み、活動が一気に広がっていった。現在では全国で〇チーム〇〇人の活動がされているとも報告されている。また、ガンバ大阪横浜FCなどのJリーグチームが主催する大会も継続的に開かれている。

 

3 SFと回復…リカバリ

  JASFAの活動が広がる中、「精神障害者がスポーツをすることに何の効果があるのか」ということは各地域でテーマになっていたと想像される。何故なら、支援者が立ち上げる活動が多かったことにより、その活動を続けるためには、背景にある精神障害者支援機関や医療機関の了解や後押しが必要であり、かつ、活動資金も必要であったに違いないからである。

 このため、SF活動を続けているメンバーの方が他のメンバーに比べても社会参加や就労がスムーズに進むという報告もされてきている。事実、これは筆者の活動経験の中でも体感しており、競技レベルが高く、チームでの活動がスムーズにこなせる人の方が社会復帰率は高い。しかし、これらは当然なことではないかと考える。なぜならSFの活動というよりも、もともと本人が持っていた資質や環境要因によるものが多く、SFの活動自体が優位に効果があるともいえず、あえて言えば、SFの中でスムーズに活動が可能な人は社会参加もスムーズにいくと考える方が適当ではないかとの印象がある。事実、SFチームになかでも、そこになじめずドロップアウトをするものや、病状悪化により中断するもの、なかなか日中活動所に繋がらないものも多くみられるからである。

 

4 SFと予防

 それではSFは精神障害者の回復にとって意味がないのか?と問われれば、そうではないと考えているし、yamakameはそのように答えている。

最近の精神障害者支援の中では「リカバリー」「孤立」「地域ネットワーク」などのキーワードが聞かれるが、SFの活動はそれらに親和性のある活動ではないかと感じているからである。

 英国で行われ、最近日本への導入が進んできている統合失調症患者家族への支援手法の一つであるメリデン版家族支援の研修の中で良く語られる「When mental illness comes in through the door , communication goes out the window」という言葉がある。日本語に訳すと「精神疾患がドアから入ってくると、コミュニケーションが窓から飛び出していく」となる。つまり、精神疾患は周囲とのコミュニケーションを難しくさせ、グループ内の不安や孤立を助長するということであり、これは洋の東西を問わず見られる現象のようである。確かに精神疾患のある人から話を聞いていくと、家族や同僚、信頼できる人とうまくいかないという事象はよく聞くし、当事者同士でもコミュニケーションがうまくいかない姿を目にすることも多い。

これらは、単に病気の症状がそうさせているのではなく、病気があるゆえの「孤立」や「病気の裏にある被害性」からくる二次的なコミュニーション障害、疾患の症状による見当識の障害や過敏さがごちゃごちゃになって生きづらさにもつながるコミュニケーション障害を形成していると感じることが多い。つまり、疾患だけではなく、彼らを取り巻く環境の側にも問題があったり、機能不全な中で形成されてしまったコミュニケーションスキル不全や対立的な人間関係が問題を大きくしているともいえる。そうすると、精神疾患の問題には投薬を中心とした医療で対応すべきではあるが、疾患に付随して起きている事象(精神疾患関連問題)に関しては、別のアプローチもあるのではないかと考えてしまう。

精神疾患関連問題に対処していくためには、病気や障害に対する正しい知識も必要であるが、「安心できる環境」「温かい対人関係」「良好な生活環境」は不可欠である。

 これらを提供する環境としては、医療機関デイケア、福祉通所施設などが主流であるが、最近では自助(ピアサポート)グループも効果があるとされている。最近ではグループの立ち上げマニュアル等も作られており、様々な活動がなされているが、SFチームはこのグループに近い構造を持っていると考えられる。また、そこに関わっている支援者も専門知識を持っていることから自然にグループの中で触媒的な役割を担うことが多いと考える。さらに、家族や単なるサッカー好きが健常者の専門家として付き合いをしてくれ、健常と言われる人にも一人一人弱みやしんどさがあること、自分たちにも健常者には負けない強みがあることを競技や運営を通じながら当事者も実感するのではないかと考えます。これらを経験してこそ障害者も健常者も(支援者も)同じ人間であることの相互理解が促され、同時に病気によって得られたことや失っていないことを考えるきっかけにもなるのではないでしょうか。「病気だからこのチームに出会えた。だから自分は良かった」あるメンバーが語っていた一言が心にやきついています。

 

5 SFとインクルーシブ活動…社会との包摂に向けて

  障害サッカーの世界では、インクルーシブスポーツフェスタという名前で、障害を越えての交流が図られるようになってきた。障害の種類や有無にかかわらずともに一つの協議を楽しむことは相互理解促進には効果があると考えます。ただ、方法を間違うと本来の意味の包摂には至らないのではないでしょうか?

 ノーマライゼーションの考え方は、広く世間に共感を持って迎え入れられています。ただ、もともとは健常者の立場に障害者を近づけないといけないということにもつながります。

 ある意味、多様性の否定につながりかねない理念ともいえる

 多様性って何でしょうか?

 

6 SFは精神障害者サッカーであるべきなのか?

 多くの関係者はそうだと考えていると思う。でも、精神障害者のサッカーで良いのであろうか?yamakameはこの活動に比較的長くかかわっている方である(深くではないが)、最初は精神障害者のサッカーが必要であると考えていた。最近は精神障害者サッカーでよいのだろうかと考えている。

 そこそこの時間をかけ、SFは選手を増やし、チームを増やし、全体的に向上してきた。技術もあがり、競技水準も上がってきている。その中で、いわゆるガチの試合が増え、出場する選手の障害の有無や種別等々に基準が設けられるようになってきた。また。主要な大会にはスキルの高い、結果、障害の軽いと言われる選手が多く出るようになってきた。この様子は多様性から真逆の方向に推移しているように見える。

 競技であるからこそ、勝つことは必要だし、チームとして個として向上することは必要であることは理解している。そのプロセスをたどっていくことが精神疾患からの回復の糧になることも理解できる。

 しかし、「自分が」これを求めてSFの活動をはじめたのかといわれると、違うことに気づきつつある。

 この活動をはじめるころ考えていたことは、サッカーを通じて様々なつながりができるのではないかという事であった。精神疾患が世間に受け入れられず、彼らは誤解のある世界で生きていく状況であった。それを緩やかに解決する一つの手段として好きなサッカーを通じて出会い、障害のあるないにかかわらず人として交流ができることによって相互理解していく一歩になるのではないかと考えたことであった。これは精神障害だけではなく、依存の問題やホームレス、LGBT等々、様々な社会的マイノリティと言われる立場の人との共生や多様性を認め合う事への手段になりえるのではないかということであった。勝ち負けも大事だけれど、さまざまな背景やスキル、身体能力を持った人が同じボールを追いかけ笑顔になることが勝ち負けよりも大事だし、そこで生まれてくる関係がより必要になるのではないか…そう思ってきた。

 現在のSFはその要素は持っているものの、今の競技を収斂させていくことはどこかで思っていたことに逆行するのではないかそのような恐れが自分の中で芽生えてきています。

 

 どうして精神障害者サッカーと名付けられず、ソーシャルフットボール(社会的サッカー)と名付けられたのか、どうすることがソーシャルフットボールを体現できるのか、ゆっくりと考えていきたいと思っています。